「私の幼少期」
~赤いランドセルが黒く見えた日々~
入学を心待ちにしていた6歳の私は、あの衝撃なことがあって以来、小学校が怖くなってしまった。
入学前の健康診断日の視力検査でのこと、まだ6歳の幼児であった私は絵の視力表を見せられて、「うし」の絵を思わず「べこ」と答えたら、周りで腕組みをして見ていた先生たちが「べこだって、あははは」と笑われてしまった。身体が小さめの私は笑った先生たちがやたら大きくて見えて、笑われたことに傷つき、べそをかき、泣かんばかりだった。それ以来弾んでいた心がストンと急激にしぼんでしまった。自宅に届いたランドセルも赤いわくわく色が消えて、悲しい黒いランドセルに見えたのを覚えている。
「学校嫌だ、行かない」
とにかく、学校の先生が怖くなってしまった私は、学校に行かないと毎朝泣いて抵抗した。困った父親は何とか行かせようとして、自転車の後ろにわたしを乗せて走り出した。まもなく後ろで抵抗するわたしのせいで、自転車もろとも土手から転げ落ちてしまった。洋服もランドセルも父親も泥だらけになった。
涙ももう出ない、「嫌だ」という本当の気持ちを、親に説明ができるほどの言葉をその時は持ち合わせていなかった。
「1年生で場面緘黙症、なんてこった」
少しずつ、気持ちが落ち着いてきた頃、小学校に登校するようになった私は友達とは喋るけれど、先生とはまったく喋ることはしなかった。先生全員に心を閉じていた。恐怖のあまり声が出せない、「先生が怖い」という気持ちを学校の先生たちは誰も聴いてはくれなかった。「あの子だよ、喋らない子は」と、わざわざ1年1組の廊下まで見に来る先生もいた。女の担任は喋らない私を、廊下に立たせた、赤い墨汁と筆で顔にひげを書いたまま、家まで消さないで帰らされた。そうすれば喋ると思っていたのなら、あきれるくらい悲しすぎる。言葉にできないほどの悲しみが増した。
友達と自宅では元気に普通にしゃべるわたしは、学校では先生と一切喋らない。今でいう場面緘黙症になってしまったのだった。
「心が泣いている・先生早く気づいて」
それは「内気」や「人見知り」のせいではなく、心が受けた強いショックと恐怖に対する防衛反応だったと思う。先生たちは、真実を知ろうともしない、そんなことで怖がるの?というのなら、子どもの尊厳やプライドを軽視するのも有りなの?一人の入学前の女の子の自尊心をどれほど深く傷つけ恐怖を与えるという想像力が欠落していたとしか思えない。
「場面緘黙症が治った、すごい理由は・・・何があったの?」
約2年間も場面緘黙は続いた。それまでの楽しい思い出は何も記憶がない、赤いランドセルが徐々に赤い色だったと思い出せるのは3年生になってからだった。
ずっと長い間、私の心は放置されたままだった。思い出すだけでも辛くなる。
「おじさん、先生だったの?」
「あれ?あのおじさん知っている」何年も私の家の庭に車を止めて魚釣りに来る人、たまに家に上がってお茶を飲み、入学前の私とも遊んでくれた人がなぜここにいるの?
魚釣りおじさんは、3年1組の教室に来て自己紹介をした。驚いた、何と担任の先生になったではないか。すでに心を許して一緒に遊んでくれたおじさんがここにいる。あっという間に先生はクラスでも大人気になり、休み時間は先生の机は黒山の人だかりになった。背中、腕、頭、耳とみんなが先生を触り、話しに行く。私も何の抵抗もなく競うように先生の机の陣取りに加わった。
「コレで私は変わりました」
ある日、学芸会の女主人公の役に合格してしまった。毎日まじめに練習して、リハーサルに臨んだが何とあれほど練習していた短いセリフ、ひざまずいて「お~神様」というセリフを「お~カミタマ」と、大きな声で自信たっぷりに言ってしまった。体育館に集まった3クラスの友達は、後ろにひっくり返って大笑いした。おじさん先生も笑っていた。
その瞬間、「パッチ~ン」と大きな音とともに、自分を包んでいた透明なカプセルがはじけて吹っ飛んだ感覚を感じた。私はそこから飛び出したのだ。
自分もつられて笑いが止まらなかった。その日からわたしの心は軽くなり場面緘黙は解消した。
「愛のある笑いは最高の治癒力」
その笑いには温かさや、愛があった。怖くない友達とおじさん先生の優しいまなざしがあった。
高台にある小学校も山も道も真っ白な雪で染まる頃、わたしは、下校途中に先生が見ていないかを確かめ、友達と高台から下の道まで赤いランドセルをおしりに敷いてソリ代わりに降りていくというスリル満点、爽快な気分を楽しむ元気な3年生の女の子に戻ることができた。
ずっと、ずっと辛かったけれど友達が受け入れてくれた。ありがとう、もう大丈夫。
「結婚後:我が家に待望の赤ちゃんを迎えて」
子ども好きで幼稚園教諭をしていた私(我が家)に、結婚7年目に待ちに待った待望の赤ちゃんがやってきた。6年間に3人の男の子が生まれてきてくれて、夢だったキャンプや家族旅行もできて、私たちにとって子どもの誕生は、成長と共にたくさんの喜びを与えてくれた。
「数年後、とんでもないことが起きた…」
・3人目の赤ちゃんを家族に迎えた年に二男に「神経系の難病宣告」
「お子さんは、残念ながら難病です。生きたとしても20歳まででしょう」何件か病院をめぐり、間違いであってほしという願いは、どの検査をしても結果は同じ。私たちは奈落の底へ落された。
「なんでうちの子なの?」突然地獄に落とされた気持ちは、誰にもわかってもらえない。子どもたちも私が泣いている姿を見ていたのでしょう。次第にごはんを食べなくなったのです。まだ生まれて3か月の三男の面倒や、幼稚園に通う長男や二男もどんな世話をしていたのかまったく思い出せないほど私は母親失格だった。
「更に追い打ちをかけるように三男にも難病宣告」
・もう、ダメだ。絶望しかない。傍らでは声を上げて笑うようになった、可愛らしい三男を抱っこしながら、母親の私は涙が止まらない日々を過ごしていた。死のうと思いで3人の子どもをワゴン車に乗せて、死ぬ場所を探して彷徨った。お母さんどこへ行くの?子どもたちは、後部座席ではしゃぎながら声をかけてきた。
ルームミラーに写った子どもの姿は、いつもと何ら変わらない可愛い元気な子どもたちだった。
「我に返った後、自分を責めた毎日」
・「帰るよ~!今日のドライブはおしまい」こころの中で子どもたちに「ごめんね。もうこんなドライブは絶対にしないからね。お母さんが悪いの」子どもを健康な身体に産んであげられなかった自分を責め続け、長く苦しい暗いトンネルから出られない辛い日々を経験した。
「電話をかけまくった末に」
・子どもの見えないところで、どれだけ泣いただろう。ご飯を食べなくなった子どもたちは、私のことを心配していたのに違いない。
元職場の園長先生、実の姉、母親、親友に電話をかけまくり、話を聞いてもらった。みんな真剣に話を聴いてくれた。
「我慢をするタイプの私が変わった」
劇的に変わったのではなく、少しずつ言えなかった苦しみを聴いてくれた人がいた。それが私の内面が変わっていくきっかけだったのかもしれない、だんだんと霧が晴れていくように、目の前にいる子どもたちを見つめられるようになっていった。誰よりも幸せな毎日になるように一緒に生きていこうと思うようになった。
「どんな励ましも、がんばれも言わないで、つながりあう友人関係」
・「まだ、すぐになんて笑えないし明るいお母さんになんて、変われないわ」私は徐々に現実を受け止めながら、子どもたちの世話を続けた。子どもたちの可愛い時期を同世代の子どもを持つ親同士とつながり、時には子どもを預け合い、一人の時間も持つことができた。こうしてつらい時期を乗り越えた。また、その2人の友人の子どもも、偶然自閉症やアトピー性皮膚炎の診断を受けていた。辛い気持ちはお互いに感じあえていたので、お互いの子どもたちを、とても大切にしあえた日々だった。本当にありがたい存在だった。
「転居しても、かけがえのない主治医の存在」
・20年診てもらっていた主治医が、退職することになった。こんなに長い間2人の子どもはもとより、家族まで支えてくれた医師には今まで出会ったことがない。本当に感謝しかない。
・前述と同じく、毎月1回の通院の折に、主治医と会うと、自分の子どもが病気であることを忘れる。すぐに急変するような病気ではないため、毎月学校での様子や楽しい話題を報告すると一緒に笑い喜んでくれた。主治医は母親である私の様子もよく気にかけてくれた。
・子どもの進学問題にも、一緒に真剣に向き合ってくれ、中学校へあがる時には主治医が県を超えてはるばる小学校に出向いて、中学校との相談会議に参加してくれた。
こちらからお願いしたわけでもなく、おそらく出張費もない中、ご自身の気持ちで来てくれたのだと思う。泣けてくるほどよくしてもらった。希望の灯りをともしに来てくれたのは主治医の先生だった。
「気が付くと、泣いてばかりいたあの私は何処へ…」
・自分の子どもだけじゃないんです。世の中には病気を持った子どもたちがたくさんいるのです。その子どもたちも、幼馴染の友達と一緒に小学校や中学校へ通いたい。その気持ちは当たり前のことで、そこを子どもの気持ちも聞かないで、新しくできた学校はエレベーターがあるからそこへ通ってほしいと指示された。結果、地元のエレベーターのない小学校と中学校へ通った。
・子どもを守り通すと決めた母親は強い。なぜ役所は要望を持っていくと必ず「前例がありません」というのだろう。前例がないと役所は何も考えないということが、あなた達の仕事ですか?と言いたい。
「じゃあ、私たちが前例になります」と、言い切った通りに、どんどん前例を作っていった。気が付くと何かに突き動かされるように行動ができるわたしになっていた。内心は心臓が飛び出すくらいのドキドキ、後ろ向きになってしまう気持ちも行ったり来たり。乗り出した船は後戻りできない、正直追い返されるのではと怖かった。
「中学校へ介助員制度とエレベーター設置の要望書を提出」
・中学校に通学しはじめ、まず車いすを押してくれる介助員制度と教育施設のバリアフリー状況が近隣県ではどうなっているかのリサーチを始めた。そのデータを持って、教育委員会に介助員をつけてくれるようにお願いし、2か月後には実現した。現在は何処の学校施設もバリアフリー化、エレベーター設置も義務化になった。
のちに、校舎4階までのエレベーターは2年9か月かかり遂に完成を迎えた。私の提案は街づくりの一環としての内容も盛り込んでいたこともあり議会で採決され実現化したのだろう。
・県立高校に合格した折には、学校内の支援体制、車いすで高校生活が送れるような人的環境と物理的環境を整えてもらえるように、県教育委員会に要望書を提出していた。めでたく県立高校も合格し、県の教育委員会もできるだけのことをしてくれた。高校はハード面の施設改修はすぐには進まなかったが、ソフト面でのバリアフリーは見事だった。教職員全員が快く迎えてくれた。心のバリアフリーは、心が繋がれば、多少の施設面が不自由であっても乗り越えられる。おかげで二男は友人に囲まれ最高の高校生活を送ることができた。
「子ども青年期:ともに夢をかなえる」
・今まで、自分の命を投げ出してもこの子たちを守ってやる、そう決意してからは母は強かった。底力という言葉もあるが、本気を出したら誰もが持っている底力だ出せる気がしてきた。ところが、最近では彼らは大人になり、すっかり私は追い越されてしまった。私も、未来が見えない子育てにいつも不安を感じていたが、それもいつしか感じなくなっていった。
・母親である私の夢も、ひとつずつ叶えて行く姿を見て、子どもたちも前向きに行動し始めた。
電飾の派手な電動車いすでワイキキをカッコよく走りたい、ワイキキの海に入りたい。英語で買い物をして、商品を値切りたい。まだあるがほとんど叶っている。私は前はできなかった趣味の音楽を今はやれていて満足している。いつかはそんな日が来ると信じて歩んできたからかもしれない。
カウンセラーmomoのお仕事経歴 = 保育士・幼稚園教諭・公立小学校カウンセラー・教育支援センター相談員 保育コンサル・ほか